SNSで「ケーキ切れる?」と言う煽り文句を目にしてハッとした。嫌いな奴、対立対象、何らかのケアが必要な相手、それらとケーキの関係が気になり始めた。
もちろん、『ケーキの切れない非行少年たち(宮口幸治 2019)』が由来であることは明らかだろう。児童精神科医の目線から見た福祉に関する問題提起の本だったと思う。筆者は少年院の少年達と触れるうちに彼らの認知機能の問題に気づく。適切な対処がされないことによるストレスが非行に走らせたのではないだろうか、と。筆者が行った検査の一つにケーキを3等分させる方法を問うものがあり、タイトルに起用された。
冒頭の煽りに対するネットの反応は、本のメッセージに反する言葉の使い方を批判するものが多かった。仮に本の内容を知っていたとしたら、ケーキが切れないことを当人の認知機能に対する揶揄に用いるのは意地が悪い。ただ、元はと言えば本のタイトルが過剰にセンセーショナルな所も問題だろう。非行少年を具体的に例えることは詰まる所、偏見である。
とは言え、偏見を持たないことは正しいのだろうか?「ケーキ切れる?」の文は共感性に何らかの問題があろう。しかしそれを見て初めて「ケーキが切れない」ことを、思ったより何も想像していない自分に気がついてしまった。本はある程度読んだ記憶がある。その上で、「ケーキが切れない」のくだりをそのような実験の事例があったとしか捉えていないような気がする。それはそれで、本の内容について考えが浅かったのではないだろうか。
そういうことで、相手を貶める意図でケーキを切らせるべきか。とか。うっかり、ケーキの切り方を知らない人にケーキを切らせてしまった場合どうした方が良いのか等、考え出してしまっている。思いを馳せているのは、本を読んだ時より今だった。
そんな事を考えろとは本には書いていなかったとは思う。本に書いていない事を考えることは直感的には良いこととは思えない。しかし、本の内容から飛び出した考えが無いと、ただただ内容に目を通しただけに留まってしまうのではないだろうか。
「ケーキ切れる?」の文章はきっと筆者が喜ぶような知見の使い方ではないだろう。それでもあの文を考えた人は、それを読む前の私より踏み込んでいたと思う。

